大弁財天について(世界一の木彫弁財天)
【清池宇賀弁財天の最福寺(鹿児島)将来と大仏顕現】
最福寺の大弁財天さまは数百年にわたって高野山に鎮座されていました。
それがどういった経緯で鹿児島に来られ、大仏さまとなって最福寺に鎮座されることになったのか?
〈インドから日本へ〉
弁財天はインドで親しまれていた神様です。それが仏教とともに中国へと信仰が広がり、やがて日本で七福神のひとりとして人々の尊崇を集めていきます。
〈高野山〉
日本の中でも高野山上池院中庭の池のほとりの祠の弁財天は、高野山の他の弁財天同様頭上に宇賀神を戴き、右手に剣を、左手に如意宝珠を持たれた姿をされています。ここで数百年にわたり尊崇されてきていました。
〈高野山上池院から鹿児島へ〉
高野山上池院で生まれ育った、豪泉貫主の母清美が最福寺の恵観開山の元へ嫁いで鹿児島に来る時、清美の父である高野山第484世寺務検校法印の田島聰興大僧正が、その弁財天様を日本の南、鹿児島で拝んでもらうようにと持たせ、それまで数百年にわたって高野山でおられたのが鹿児島に移られることになったのです。
〈西大寺〉
鹿児島に来た弁財天さまは初め鹿児島市内に住する清美の下ではなく、恵觀開山の母、智觀淨法尼の西大寺にとどまることになります。それはこの弁天さまは良い仏様で力も強いのでまず私の手元に置いて拝むという智觀淨法尼の強い意向によるもので、智觀淨法尼が数十年にわたり1日も欠かさず続ける午前過ぎから明け方まで続く行の中で毎日拝まれる事になりました。
ところで、その西大寺は鹿児島県太平洋側の大隅半島にあって、数百メートルも歩けば松林があり、そこを抜けると太平洋が広がるところに位置しています。
西大寺の近くを流れる川は程なく太平洋に注ぎ込みますが、西大寺から一番近いところにかかる橋の名がその昔より弁天橋というのも奇縁を感じさせられます。
〈西大寺から最福寺へ、そして大仏さまへ〉
恵觀開山が歴史上前例のない百萬枚護摩行を成満すると、さらなる衆生救済のため大仏造立を発願。
丈六仏3体の依頼を受けた京都の松本明慧仏師は、これを自身一世一代のものにしたいと恵觀開山に頼み、丈六仏を超える大仏1尊として造立される事となりました。
松本工房の仏師あげての製作は10年以上に及び、ついに総丈18.5mという世界一の木彫弁財天としてその姿を鹿児島最福寺四恩殿に顕現され、白無垢の肌は、開眼以来の連日の護摩行によって深みをました姿になり、四恩殿に来られる人々を迎えておられます。
清池宇賀大弁財天 (通称:平成大仏大弁財天/お母さん弁天)
【世界最大の木彫弁財天と四恩殿】
平成12年5月14日開眼 総高18.5m(幅10m、奥行き7m)
四恩殿:高さ33m、幅31.5m、奥行き44m
高野山上池院で拝まれきた弁財天
七福神のひとりとして知られる弁財天は、大黒天と同じく、その生まれはインドです。それが中国を経て、日本にやってきましたが、最福寺大弁財天像の雛形となる弁財天は、真言密教の本山、高野山で拝まれてきたものです。
頭上に宇賀仙人を戴き、右手に宝剣、左手に宝珠を携えた平成大佛大弁財天像の原型は最福寺開山の恵觀大僧正の清美夫人が御輿入れの際、御父上の前管様から持たされたものだそうです。その由来について御実家の高野山刈萱堂上池院の清美夫人の実兄である田島聖章上綱様(大仏開眼当時)に伺ってみました。
田島聖章上綱様(大仏開眼当時)「上池院は、弘法大師空海が初めて高野山に登られた時、33ヶ月仮住まいされた土地に建立されたお寺で、お大師様自作の千手観音様を本尊として観音院と号しておりましたが、焼失しまして、その後、新義真言宗を開かれた興教大師覚鑁上人が、当山に池を造営されたのに因み、上池院となりました。上人様の池という事でしょうね。庭園にはお大師様が中国から持ち帰られたという沙羅双樹の木があり、毎年真っ白な花を咲かせております。日本一古い沙羅双樹ですよね。お尋ねの弁天様は、覚鑁上人が作られた池の中洲に祠がありまして、ずっとそこに安置されていた二臂の弁天様だと思います。前管様と呼ばれております私の父、田島聰興は、高野山の最高位、寺務検校四百八十四世法印、つまり、484人目のお大師様の御名代を95歳の時、務めた人ですが、この父が娘の嫁入り道具の中に入れてお守りにしたんでしょうね。まあ、今思えば思えばはるかにたくさんの人々をお救いになることを、前管様はわかってらしたのかもしれませんね。最福寺に行かれた弁天様の祠には、現在琵琶を持った弁天様が入っておられますが、今でもお詣りされる方が多くて、龍神ということでしょうか皆さん卵をお供えしていかれますよ。」
大弁財天開眼・四恩殿落慶までの11年の歩み
発願
平成元年5月14日
鑿入れ式
平成2年10月25日 (於:京都大原野松本工房)
原型雛型像湯入れ式
平成4年3月15日 (於:烏帽子山最福寺境内)
最福寺大弁財天大佛殿起工式
平成10年3月30日
大佛殿上棟式
平成10年12月7日
大弁財天宝剣入魂式並びに大弁財天御遷座道中安全祈願祭
平成11年4月 (於:京都教王護国寺)
世界最大木彫座佛大弁財天が最福寺に到着
平成11年5月22日
大佛殿相輪取り付け
平成11年5月25日
世界最大の磨き御影石大灯篭「福徳定恵大灯籠」除幕献灯法会
平成11年8月3日
大弁財天入佛大法会
平成11年10月4日
開眼落慶大法會
平成12年5月14日、総丈10間に及ぶ世界最大の木彫大弁財天像の開眼法要と大佛殿の落慶法要が、高野山真言宗管長の和田有玄総本山金剛峯寺座主の御親教で執行されました。大弁財天像は平成元年5月、烏帽子山最福寺法主、池口恵觀高野山傳燈大阿闍梨が百万枚護摩行成満後に造仏を発願、京都の大仏師松本明慶師に依頼、約12年の歳月をかけて完成いたしました。寄木造りで幅10m、奥行き7m、製作には100トン以上の無節のひば材(檜)が使用されています。
また、大弁財天像を安置する大佛殿は高さ33m、幅31.5m、奥行44m。本来河神であった弁財天の功徳を象徴するかのように、同の周囲に水を張り滝のように流れ落ちるという壮麗優美な建造物で、設計は京都大学の川崎清名誉教授、施工は飛島建設(株)が担当しました。
法要は午前と午後の2部構成で営まれ、午前中は和田管長を大導師に、総本山東寺事務長の砂原秀遍大僧正、総本山金剛峯寺 宿、嬉野覚昭大僧正を脇導師に、総勢130人の僧侶によって「中曲理趣三昧」をもって営まれました。
午後の部は、高野山傳燈大阿闍梨である池口恵観最福寺法主を大祇師に護摩供を奉修。午前、午後ともに技芸・芸術の神といわれる弁財天を慕って様々な技芸が奉納されました。
四恩殿命名
大佛殿落慶にあたり、最福寺法嗣豪泉僧正(当時)により「四恩殿」と名付けられ、その揮毫をして頂いたのは、木彫大弁財天像の開眼法要と大佛殿の落慶法要を御親教された高野山真言宗管長の和田有玄総本山金剛峯寺座主猊下です。揮毫された文字は正面入り口に掲額されました。
大仏師松本明慶
通称・お母さん弁天
最福寺の大弁財天様は“お母さん弁天”とも呼ばれ、母親としての徳も強く持たれています。
毎日の護摩行で皆さんのご祈願をお聞きになられているせいか、お顔が初めの頃に比べてすっかり変わられています。
お参りに来られた方には、大弁財天さまの拝み方として、ご自分の祈願と同時に、大弁財天さまをご自分のお母様と思ってしてもらった事をひとつ思い出し、その事に対しありがとうございますと感謝の気持ちを供えてもらうようにしています。
開眼時のご尊顔
令和元年現在のご尊顔